2023年6月1日(木)~卓上から宇宙をみる~87
〔サイコロの重み〕
先日、こんなことがありました。
その日の開幕ゲームの東3局、前局にリーチ・ピンフ・ツモ・ドラ1・裏1のマンガンをアガリ、意気揚々と親を迎えた私。
さて今局も!とサイコロボタンを押すと・・・
「えっ?!」・・・押しても押しても回らないじゃありませんか、サイコロが!!
よく見ると、押し潰されてるようなダメージがボタンにあって、指先の角度を変えては押し変えては押し、押す強さも微妙に変えてみたものの、サイコロは回りません。
仕方なく腕力勝負に出てみるとカラカラと力なく回るサイコロ。
これでは勝負の前に敗戦が決まっているようなもの・・・私は肩をおとしました。
昨年までと違い、今年からサイコロを回すときのタイミングと使用する指を変えている私。
更には、サイコロを回すときの呪文、いえ、正しくは心の置きようを変えてみると・・・
良い結果というよりも、悪い結果が出にくくなったような気がしています。
ここでいうところの悪い結果とは、親ッカブリして、4000点や6000点の支払いを招く結果のことです。
呪文は、「良い目が出ますように」とか「悪い目が出ませんように」とか、子供じみたオマジナイをかつてはしていたものですが、その呪文は<欲張りさん>以外の何ものでもないことに気づいた私。
そこで今年からは、『自然に自然に』『皆が打ちやすい局になりますように!』と心で唱えながらサイコロボタンを押すようにしています。
昨年までの私は、「<8>だけは出ませんように」とか「<10>や<6>が出たらイイな~」とか、自分の<得>ばかり願うような浅ましい押しかたをしていました。
お参りに行ったときと似ていますね。
出世とか合格とか、お金のこととか健康のことを願って手を合わせることは、果してどうなのかな?と思うようになりました。
もちろん、身内や友人の安全や健康を祈願することは悪いことではありません。
でも、神様だって限度があるはずで、万人の願いを叶えられるほど余裕があるとは思えませんから、祈願はなるべく避けて、お礼や感謝の気持ちを伝える場としたほうが良いのではないのかなと思うようになりました。
『お参りに来られること、健康でいられること、いつもありがとうございます』と。
卓上に置き換えてみると・・・
『今日も、元気に卓に座ることができて、一緒に囲んでくれる相手がいてくれて、神様ありがとうございます』という想いでサイコロボタンに手をかけるようになりました。
ところが、いつものタッチで押しても、サイコロが微動だにしないのです。
そんなぁ・・・・・・
これでは儀式もままならないばかりか、闇夜で打たされているような感覚に陥り、どうしていいのかわからなくなりました。
こんなにも大切な儀式だったのかと、改めてサイコロを回すことのウエイトを思い知らされるとともにもっともっと<サイコロを回す>ということをあらゆる角度から勉強して、その結果を実践スキルとして身につけていかなければならないなと痛感しました。
《たかがマージャン、されどマージャン》と云いますが、私にとっては
《たかがサイコロ、されどサイコロ》
と云うことになっているようなのです。
回ってくれないサイコロを前にして、うなだれてしまった私の偽りのない実感です。
※本文は東京麻雀アカデミー(雀友俱楽部)のテキストより
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