2025年5月1日(木)~卓上から宇宙をみる~133
〔言うは易し 行うは難し〕
ツモ
ドラ
東3局の親を迎えた私の手牌です。
ペン が急所になっているとはいうものの、まとまりそうな予感もあった6巡目、ツモは
、さてここで何を切ろうかという段になり、私は
に手をかけていました。
効率的ではない選択であることは誰の目にも明らかで、素直に に手をかけられれば何の問題もない手牌でした。
打ち手には、それぞれの<麻雀観>があり、それぞれの<打ちグセ>があります。
良きにつけ悪しきにつけ、それが打ち手の個性となって卓上を華やかなものとし、百人いたら百通りの世界が繰り広げられていくのです。
ところが、ここのところ目に余る戦績の悪さもあって、私の<麻雀観>や<打ちグセ>が時代にマッチしないものに映り、その既成概念化した部分に変化を与えたほうがいいのではないか?という助言をいただくようになりました。
私はご存知のように字牌を第1打に選択しない信条で打ってきました。
どんなに負けを重ねても、いかなる批判を受けようとも、この信条を捨てるくらいなら麻雀が打てなくてもいいと考えています。
しかしながら、字牌を2巡目以降から切り出す打ち筋から、必然的に字牌を重ねていくトイツ手やコーツ手が増え、それが私の<打ちグセ>となっているのも事実です。
そのため、どんな手牌を貰っても、トイツが3組、そして4組と増えていくと、必ずや七対子の可能性に含みを残す手順を踏む<打ちグセ>が付いてしまっています。
もちろん、それが私の持ち味というか<色>となって、プロとしての自尊心を満足させてきた側面は否めません。
既成概念を打破するということは、これらの私の核心部分に変化を与えるということであり、断腸の思いを持って、この<打ちグセ>を見直すということに他なりません。
手牌を戻しますと
ドラ
ここから を切っても、4トイツのままであり、七対子の芽が積まれるわけではありません。
では何故、タテヨコ自由自在な 切りではなく
を選択してしまうのか?
それはもう が
のトイツの筋に当たるからで、頭はもう七対子に偏りを見せ始めているのです。
もちろん、その思考を加速させたのは、トイツの の筋に当たる
が重なったことが大きく、これも今まで打ってきた私の麻雀金属疲労の表れととらえるべきことなのかもしれません。
6巡目に を打つと、次巡のツモが
、効率的(常識的)に
を打っていれば手牌はこうなっていました。
ドラ
ここからストレートにドラ を打つも良し、シュンツ手を目指して
を打つも良しのイーシャンテンになり、Aリャンメンである
が生き生きと映るはずでした。
にもかかわらず、一貫性という名目で、その をツモ切りして
を待ち続ける救い難い打ち手がいました。
1枚でも2枚でも、手牌に存在する字牌を早めに放していく<打ちグセ>を付け、七対子への妙なこだわりを棄てて、周りのスピードについていけるような<打ちグセ>を付ける練習を始めています。
「五十の手ならい」ならぬ「六十の手ならい」になりますが、何か浮上のきっかけを掴めるのであれば、変革のトレーニングを始める意味はあります。
でも、長年培ってきた<打ちグセ>を削っていく作業は思っていたより難しいことは確かです。
それでも、この作業がいつの日か実を結ぶことを私は信じています。
※本文は東京麻雀アカデミー(雀友俱楽部)テキストより
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