2024年8月1日(木)~卓上から宇宙をみる~115
〔言行不一致〕
ある日のリーグ戦でこんなシーンがありました。
初戦のオーラス、持ち点は▲2万9千点という谷底で親番を迎えた5巡目の手牌。
ドラ
ここから何を切るのか?
普段から私はこんな話をしています。
「3と7という尖張牌は、前に出てくる人からそう簡単に仕留められる牌ではないし、そもそも自分の手牌のターツが、3や7だけを欲している形そのものがアガリから手牌を遠ざける要因になりやすい」
「だから、246という形から1枚外さなければならないときは2を、468という形からも8を切り、決して6や4を切って、カン3やカン7という尖張牌受けを自ら作り出してはいけない」
もちろん、例外的には、234や678の三色を作っているときや、場に5が数多く切られているときはその考えに縛られる必要はない」
「また、同じ尖張牌受けでも、不調時のペンチャン〈辺張〉、つまりペン3やペン7受けは入ってくることを期待してよい」
などと能書き垂れている私が、先の手牌から選んだ牌は、あろおうことか 。
ソーズの形 から や を切らずに を切り としたのです。
このとき、なぜ に手をかけたのか?
が2枚ある小さな壁の外を頼ってのスジ待ちの が命綱に見えてしまっていたとしたら、相当メンタルがやられているわけで、救いようのない打ち手と化していたのです。
6巡目のツモは 。
本来であれば、ここでリーチを打てていました。
ドラ
やがて下家からリーチが入り、13巡目の私の哀れな手牌はこうなっていました。
見ておわかりのように5巡目に か を打てていれば、 でツモアガリをしていたはずなのです。
そして皮肉にもツモることが出来た が裏ドラでした。
この局は当然のことながら、下家が15巡目にマンガンをツモアガリ、私の親っカブリで幕が下りるのですが、あまりにも不甲斐ない選択にプロ失格の烙印を押されてもおかしくありませんでした。
普段から力説している要の話なのに、何故ゆえ、自ら実践出来ないのか?
甚だしい言行不一致に呆れてモノが云えなくなります。
2戦目のオーラスにもこんなシーンが。
ドラ
▲2千点の親、7巡目のテンパイです。
私の選択は打 。
ダイレクトのスジ引っ掛けはしないので、2巡回し、ツモってきた と を入れ替えてリーチ。
もしドラが ではなかったら、もちろん私は を切って即リーチをかけていました。
では何故そうしなかったのか?
ドラ待ちに関しても普段から力説していて
「ツキが離れているときは、ドラ待ちはもちろんのこと、ドラを使おうとせず、まずは安手から階段を昇っていくように」
「可も無し不可も無しのときは、ドラを待ってみたり使いきるチャレンジを」
「ツキがあり追風のときは、安手のアガリを逃してもいいから、ドラは手放さぬように」と話してきました。
オーラスを迎えて▲2千点の3番手。
トップは8千点弱の差。
この表面上の数字だけ見れば、ドラ待ちリーチのどかが悪手なの?と言えますが、初戦オーラスの大悪手を放った身から、そう易々とドラの をツモれるのか?
いわゆる『大局観』に欠けた選択をしてしまい、数巡後に をツモる現実、そして流局するという当然の結末、次局はあっさり親落ちしゲームセットとなる顛末に茫然自失となってしまいました。
言行不一致。
だって人間だもの、などと言い訳せず、心と体を鍛え直さないと取り返しがつかないことになりそうです。
※本文は東京麻雀アカデミー(雀友俱楽部)テキストより
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