2024年1月15日(月)~卓上から宇宙をみる~102
〔私が第1打に字牌を切らない理由②〕
古めかしい師弟関係の話ではなく、麻雀の本質を見抜き、その真理に迫っていこうとする師(私だけの思い込みに過ぎませんが)に倣っていくのは当然の行為だと考えていた私。
もちろん、第1打に字牌を切らなくなった当初は戸惑いだらけでした。
A ドラ
B ドラ
C ドラ
パッと見てやる気の出る配牌であっても、第1打に手中の字牌を切りたくなる手牌に対しては、あまり大きな期待は持てないことがわかってきました。
Aの第1打は
Bの第1打は
Cの第1打は
最近になってようやく気づいたのですが、第1打に字牌を選びたい手は、ほとんど三色が出来ないということ。
AもBもCも、配牌を見た印象では、三色を狙いたくなりますが、「きっと安めを引いて三色が崩れるんだろうな」と考えるようにしてますし、仮に三色の形が崩れぬまま手牌が進行してしまったら、よほどのツキに恵まれない限り、「放銃の危険が迫ってきてるな」と考えるようにしています。
また、自分の調子の良し悪しに合わせて、第1打を調整するようにもなりました。
D ドラ
E ドラ
F ドラ
調子がいいとき D: E: F:
フラットなとき D: E: F:
下がり気味なとき D: E: F:
調子が悪いとき D: E: F:
麻雀は予測を重ねていくゲームですから、その局がどんな終わり方をするのか?常に考えながら第1打を選択していくトレーニングを積めと、師から云われているような気がしています。
Dから 、Eから か 、Fから などを第1打に切ってしまうと、まだまだ手牌の方向性が曖昧なままですから、数巡経てツモの来かたを見ないと行く末がわからないという話になります。
もちろん、それが普通といえば普通なのですが、<研ぎ澄まして打つ>ことによって、普通の意識下では見えない何かが見えてくるようになると、師は伝えたかったのかもしれません。
一見すると不自由に見えたり、理不尽なことをしているように見える第1打の数牌限定切りには、多くの<学び>があることを私は知るようになりました。
四半世紀も続けていると『意おのずから通ず』ということにもなって、以前より少しだけ麻雀の真理に近づけたような気がしています。
もっとも、入り口からほんの数メートル進んだくらいのレベルでしょうから、師から見れば、<笑止千万>、お話にならないことには違いありません。
でも、これから先もずっと、第1打に字牌を切らない麻雀ライフを送るつもりでいます。
※本文は東京麻雀アカデミー(雀友俱楽部)テキストより
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